TOPへ戻る ソレイユ館の鏡  

フレッチャー刑事は憂鬱な顔で居間の光景を見ていた。 颯爽とフランスの古都リヨンに到着し、市の秩序と安全を守る警察本部において、謎の失踪事件に素早くアプローチするところまではよかったのだが、その後の進展がまるでないのだ。 居間では、リヨン市内の窃盗、傷害など日々のもめごとを専門に扱う部署に長く腰を落ち着けているパレー刑事が、宿の女主人と、失踪者の隣部屋に滞在していたジャン・ヴォドイ氏に先日来の質問を繰り返していた。

この「ソレイユ館」は、元は隅塔2本を備えたりっぱな城館だったらしい。すでに隅塔は無くなっているが中庭を挟んで左右に伸びる重厚な外観は歴史の重みを感じさせていた。左右対称ではなく、左側の南棟のほうが部屋数が多いようである。北棟の2階4部屋を宿として利用していた。中庭の横の階段を上ると4部屋の入口ドアが見渡せる廊下に出る。突き当りは壁である。廊下も部屋も広さがあり、荷物の多い逗留客に喜ばれていた。 1階部分は、倉庫、作業場で、おおよそ400年の間に蓄積された器具類が並んでいた。 宿の窓からはローヌ川が見渡せ、立地条件も良いことから特に経営状態に問題はなさそうである。実際、部屋はすべて埋まっていた。ピエール・ベルキュ氏は横に並んだ4部屋の奥端の部屋から消えてしまったのである。

ソレイユ館の主であるボーモン家がこの宿の営業にこだわっているのは、この館がブルボン王家の基になったという伝説を背負っていたいからだということである。その伝説とは、アンリ4世がこの館でメディチ家から迎えた花嫁マリーと初めて顔を合わせ、そしてめでたくルイ13世が誕生したというものである。このとき、アンリ4世の愛人であるアンリエットは、王妃より先に男児を生んだときには王妃にするという王の約束の手紙を持っていたのだが、ルイ13世の誕生が二ケ月ほど早かったという訳である。 つまり、この館こそが後の太陽王ルイ14世に続く重要な架け橋の役目を果たした特別の場所であるらしい。アンリ4世はこのとき、王と従者が同時に誕生したと言ったそうだが、この悪い冗談は王妃のメディチの血にも愛人アンリエットの美しい瞳にも陰謀の影を落としたようである。 もちろん、ルーベンスの連作にこの館の一夜は登場しないし、豪奢な客人についても、遠方の貴族の婦人が、狩猟姿の愛人との密会に利用しただけかも知れないが、エリザベス1世の時代のフランス宮廷の話である。

そろそろ、失踪者が残した鏡を持ってイギリスへ帰りたいのだが、肝心のブランドフォード邸から盗まれたらしい鏡がないのである。 部屋に鏡2枚を残して貿易業者が失踪したと、リヨン警察からフレッチャー刑事の所属する課に連絡が入った時には、近隣の諸国に「鏡盗難事件」の捜査依頼(いわゆる盗品の返還依頼)をしておいてよかった。先見の明があるとはこのことだ。と課全員が自分たちのスマートさを自画自賛したものだったが、肝心のブランドフォード邸から盗まれたらしい鏡がないのでは、リヨンまで来たかいがないというところである。 鏡発見についての謝礼の申し出があったのはブランドフォード卿だけであった。

銀行家のフレミング氏のサロンの壁から鏡が消えたのは、外国の投資家や新進の芸術家を招いたパーティの翌日夜のことだったらしい。というのも、盛大なパーティの翌日の午後、確かに鏡はあったと複数の者が証言したからである。 鏡はフレミング氏がウィーンで購入したもので、氏の説明によれば、あるいは購入先の店の主人の説明を信じるならば、オーストリア皇帝所有の鏡と同じデザインであるとのことである。フレミング氏は好んでこの逸話を披露していた。 それゆえに、鏡1枚の被害届が提出されたのである。

医師のシュナイダー氏の待合室から鏡が盗まれたのは、その1週間後のことであった。楕円形の鏡の縁を微妙にずれた二本の装飾ラインが囲んだこの鏡は、二本の循環器を表しているとのことで、これを損なわないことが重要であるというのがシュナイダー氏の持論であった。 鏡の制作者が循環器を意識していたとは思えないが、ベネチアでのシュナイダー氏の胸をときめかした旅の思い出とともに待合室を飾っていたのである。

この時に「外国製の鏡のみを狙う盗賊」として小さく新聞の隅に載ったのであるが、反響は大きかった。読者は暗い記事より、金持ちの屋敷から高価な外国製品が盗まれる話が好きだったからである。当然、高価な品々はすでにイギリスからは持ち去られているであろうと、匿名の事情通の意見などを織り交ぜて読者の興味を煽っていた。 3枚目の鏡がブランドフォード邸から盗まれた時に、フレッチャー刑事の所属する課に重要事件としての捜査依頼があったという訳である。 それまでは、「内部犯行」が了解事項だったのである。 フレッチャー刑事がリヨン担当になった理由は、フレッチャー刑事以外の全員が別の重要事件で手一杯だったからである。

楕円形の低いテーブルの向こうでマルト婦人は少し疲れているようだった。少し離れた椅子に座ったヴォドイ氏は、好奇心半分心配半分のような曖昧な顔をこちらにむけていた。今日の予定を早めに切り上げてこの場に参加しているのだ。 残りの二人の宿泊客は織物の取引関係者で、今日は夕方まで帰宿しない予定になっていた。もちろん、部屋は捜査済である。事情聴取の内容に問題となるようなものはなかった。 中庭に近いダントン氏は疲れて早めに寝たので何の物音も聞いていない。その隣のブロトー氏は伝票類の整理を12時頃までしていたが特に変わったことはなかったと証言していた。10時過ぎに廊下でおやすみの挨拶をしている声は聞いたとも証言していた。

「パレー刑事どの、何度も申し上げておりますとおり、何の連絡もなしに消えてしまったのです。もう6日も待っておりますが何の連絡もありません。 宿泊代金は前払いで1週間分戴いておりましたが、今日で9日の滞在になります。何分にも、状況が説明しにくいものですから、しかたなくそのままにしておりますが、そろそろお終いにして頂ければ助かるのですが。 変わったことがあれば、すぐ通報するようにとのお達しがありましたので通報した訳ですが、お手間を取らせただけなのかも知れません」

「マルト夫人、お気持ちはよく理解できますが、近頃の無政府主義者の跳梁には手を焼いております。カルノー大統領の不幸な事件からまだ半年もたっていないのです。犯人はイタリア人でした。怪しい失踪者の件をそのままにしておく訳にはいかないのです。失踪したピエール・ベルキュ氏は確かにパリでベネチアガラスの店を構えており、頻繁に外国旅行をしていたようです。 たまたま、商談が長引いて連絡が滞っているのかも知れませんが、隣部屋のヴォドイ氏の証言によれば、先週の日曜日の夜、夕食後に二人で話をしたときには特に変わった様子はなかったとのことでした。その後、何か思い出したことはありませんかヴォドイさん」

「刑事さん、その通りです。しかし、私の話は今となっては大変重要になると思うのでもう一度繰り返しておきます。どのようにして軽い話をするようになったのかについては興味がおありにならないと思いますので割愛いたしますが、肝心なことは、ベルキュ氏は日曜日の夜少し浮かれるほどの金を持っていたのではないかと思うのです。 "自分の目に狂いはなかった。本物を手に入れベネチアの友人に売り渡した" と言っていました。"長い流浪の物語もお終いになるだろう"とも言っていました。ベネチアの女王の宝石でも扱ったのかと訊いてみましたら、笑って "鏡の中の未来を" と言ったのです。その後も色々な話をしました。そして、10時頃に部屋の前で別れたのが最後です。 翌朝、彼は部屋から消えていたのです。部屋の前で別れる時に、身の回りの品々を残して消えてしまうような様子はまったくありませんでした」

「パレー刑事どの、ヴォドイ氏のおっしゃるのも当然のこととは存じますが、月曜の朝、ベルキュ氏がいつもの朝食の時間にかなり遅れましたので、朝食の係であるトルガが部屋まで行ってノックをしたところ返事がないばかりか部屋の鍵が開いていたというのです。 不用心ではありますが、所用で少し部屋を離れているだけかも知れないのでそのまま戻ってきて待っていたらしいのですが、それきりです。部屋の鍵は内側に二つあります、うち一つは内側でしか操作できませんので、ベルキュ氏が自ら外すしかないのです。 夕方まで待っていましたが何の連絡もないものですから、急いで部屋から出る必要が生じたのかも知れないと思って通報したのです。もしや誰かに追われているのであれば巻き込まれたくないと思ったものですから」

フレッチャー刑事はブランドフォード邸から盗まれた鏡はもう取り戻せないことを確信しつつあった。鏡は大金を支払ったベネチア人と一緒にイタリア人社会へ去ってしまったのだ。イタリア人の巧みなネットワークの内側の秘密は決して外に漏れることはないだろう。 特に今、カルノー大統領暗殺という途方もない大事件の余波でイタリア人社会はより閉鎖的になっていた。曰くつきの鏡の前でパーティを開いているとは思えなかった。 二年前に爆発した「パナマ運河会社破産処理」は今もくすぶり続けていた。スエズ運河開通式の美々しい装飾艦の列を新大陸でも見ようと人々は資金を投じたのだが、結局、株券はただの紙切れとなって永久に終わってしまったのである。 政治不信はテロリストを養成し、テロリストに対する激しい弾圧は新たな事件の発生を予感させて人々を疑心暗鬼に陥らせていた。

「マルト夫人、ヴォドイさん、ありがとうございました。参考になりました。ところで、もう一度北棟の周りを調査してみたいのですが宜しいでしょうか。先日も見て回りましたが、どうにも、逃走ルートと申しましょうか、そういうものが見当たらないのです。ご存知のように、今、テロに対する厳重な警備が敷かれていますので、多少とも挙措不審な者であれば通報があると思われるのですが、まったくありません」

「パレー刑事どの、もちろんです、お願いいたします。もし、御用がございましたらあちらにおりますルドリーにお申し付けください」 マルト婦人は「調査が終わりましたらできる限り早く事件の終わりを宣言してください」という言葉を言外に含んだ声で言った。

フレッチャー刑事はパレー刑事の後に続いて北棟に向かって歩いて行った。古めかしい建物の周りを注意深く歩きながら、見上げたり、植え込みの後ろを探ったりした。 「3人がグルになってベルキュ氏を埋めたってことはありませんか」フレッチャー刑事は、パレー刑事の所作を真似て見上げたり植え込みの後ろを探ったりしながら言った。 「口裏合わせですか。その線も考えてはみましたが、3人とも重要な取引のためリヨンに滞在しているのを確認しています。ベルキュ氏の金を奪うより取引を成功させたほうが全体的な儲けが多いようですからどうでしょう。まったくありえないとは申せませんが。ベルキュ氏の羽振りが良いのが気に障っていたとしても凶行に発展するかどうかは疑問です」 二人は北棟の壁に沿って未発見の何モノかを探しながらベルキュ氏が宿泊していた部屋の窓の下に出た。縦長の窓が厚い壁に黒い錬鉄と白いガラス反射のアクセントを添えていた。北棟四部屋に続く中庭の外側に当たる部分は大小の木々の植え込みで南棟への通行を妨げていた。南棟にはマルト婦人一家の居住スペースがあり、家人専用の出入り口も設けられていたので、木々によってプライバシーを確保している模様である。 北棟の窓の下にも南棟に続く木々の植え込みにも重いものを引きずったような跡や、折れた枝などはなかった。昨日までの確認済事項に追加するものは何も見つからなかった。 フレッチャー刑事は等間隔に並んだ窓をもう一度見上げた。ベルキュ氏がいずれかの部屋の窓から突き落とされたという線は無さそうだ。また、隣人の部屋の窓から降りて走り去ったということもなさそうである。窓枠にも、窓下の地面にも何の痕跡もなかった。しかし、その窓の等間隔の並びに釈然としないものを感じた。

「あそこでちょっと休憩でもしましょうか」とパレー刑事が言ったので、フレッチャー刑事は顎に指をあてたまま「ええ、そうしましょう」と答えた。 庭の隅に二本の木を配した四阿(あずまや)があった。夏にはきっと心地よい風がローヌ川のほうから渡ってくるのだろうと思われたが、今は風を避ける季節である。二本の木もすでに葉を落とし始めていた。

「一階の倉庫は鍵がかかっていたんですよね。部屋にも廊下にも殺人などの痕跡はなく、部屋のドアの鍵は開いていた。建物の周りにも争ったような形跡もない。どう推理されているか教えて頂けませんか?」
パレー刑事は館を見ながら話始めた。「マルト婦人には成人した息子と娘がいることはお話しましたね。息子のベルナールですが、どうもレートのバカ高いポーカー酒場に出入りしているようなんです。この酒場は今まで二回ほどもめごとがあったところで、まァ目を付けられていた場所だったのです。それで、ベルナールの名前も出たという訳ですが、失踪事件との関連を疑われたのは実は昨日なんです」
「えっ、昨日ですか」フレッチャー刑事は昨日、鏡の形状を念入りに報告書にしたためるために多くの時間をさいていたので、ベルナールの話は初耳であった。
「そうです。さる男爵がパナマ運河株券話を持ち出して手付金を集めているようだ、という情報の確認を行っている担当課のほうから身元の照会があって分かったのです。ミシェル・ヴォドロイユ男爵というれっきとした貴族です、詐欺を疑われているのは。まだ、被害の報告はありませんが、十分に疑わしい話を持ち掛けているようです。 その話というのは、パナマ運河債権をアメリカ合衆国が買い取るというものです。手付金を支払った者の株券のみを相応の金額で買い取るというのですが、あり得ないでしょう。確かに、アメリカの財力があればパナマ運河を完成させることができるかも知れませんが、破産した会社の株とは無関係です。しかし、あきらめきれない夢に金をつぎ込む者は確かにいるのです。 なんといってもいけないのは、アメリカ合衆国はまだ何の決定もしていないということです。この手の詐欺は明確なビジョンが現れたときに、金とともに相手が消えるのが普通です。 そのミシェル・ヴォドロイユ男爵とよくポーカーのテーブルを囲んでいるのがベルナールらしいのです」
「ほう、それは大変な男との同席を目撃されたものですね。それで、ベルナールはどのような役を演じているのですか?」
「カモです」
「えっ、手付金を払ったとか!」
「手付金については確認されていませんが、ポーカーの借りがあるらしいのです。店の相談係兼取り立て係のボワ・ブリザールという男と話をしているところを見られています。この無口な男は返済の期日を念入りに教える以外に客と話しをすることはないという噂です」
「そうですか、、、 では、パレー刑事はベルナールがこの失踪事件にからんでいると推測しているのですね」
「…」パレー刑事は、目線を遠くへ移しただけで答えなかった。

「では、少し私の推理を披露してみたいのですが。確認された状況からやはり、ベルキュ氏は館内でトラブルに遭遇し今も館内にいる、と思われます。メディチ家の別荘であれば、天井から首吊りロープが下がってくることなども考え先日の見分時にしっかりと天井を見上げましたし、天井裏の状況も聞き取りましたが、その点は問題がありませんでいた」
「メディチ家の別荘ではなかったと思いますが、どうぞ、続けてください。大変興味深いです」
「続けます。イギリスに窓の数が部屋の数より多いといわれている古城があるのです。恐ろしい隠し部屋伝説です。そこで私には思い当たることがあったのです。あの部屋の家具の配置です。窓からの心癒されるローヌ川の風景を遮るように机があったではありませんか」

それについては、パレー刑事も確認していた。窓の近くにあってもよさそうな小さなテーブルと二つの椅子がドアの近くにあったのだ。長逗留の客の便宜を図っているのだろうと思っていた。他の部屋もすべて同じ配置だったし、ブロトー氏などは机の上に伝票の束を並べていたくらいである。窓からの眺めより数字を見ていたい客が多くても不思議ではない。 パレー刑事は、ブロトー氏のきちんと整理された伝票や報告書の束の載った机の左側から多くの光がさしこんでいたことを思い出した。ベルキュ氏の部屋の机と窓の位置はそうではなかった。確か、机の正面に近い位置に窓があった。

「そうだ、窓の位置が各部屋で違っていた。少しづつ右へ寄っていたと思う」
「そうですよね。ところが外から見るとまったく違いを感じさせません。ことさら同じ位置に窓があるかのように装っているのではないかと思われるのです」
「確かに、ドアの鍵が内側から解錠されていたのを重視して壁の見分が疎かになっていたかも知れない。マルト婦人に言ってもう一度部屋を見せてもらおう」

二人は風の冷たい四阿(あずまや)から失踪したベルキュ氏の部屋へ移動した。部屋はベルキュ氏が失踪した朝の状態で置かれていた。 部屋の壁紙は正方形と長方形を淡い濃淡で表した連続模様で、多少三次元的な凸凹効果が見えるモダンなデザインだった。 フレッチャー刑事は入り口近くの壁に顔を近づけて、横から壁全体、特に机あたりの壁の異変を発見しようと目を凝らした。パレー刑事は素早く机の下にもぐって壁を探っていた。部屋の鍵を開けたルドリーは入り口で二人の様子を眺めていた。
「あそこだ」フレッチャー刑事は机横の天井近くを指さし、「扉のようだ」とパレー刑事は机の下で、同時に言った。
パレー刑事が机の下から出て言った。「ルドリー、この机は移動できるか?扉を押しても開かないのだ」
「はい、パレー刑事どの、机の移動は可能でございますが扉など初耳でございます」
「いや、まて。机はそのままのほうがよいのかも知れない」
フレッチャー刑事もやってきて机の下をのぞき込んで、壁に机の大きさそのままの扉がはめ込まれているのを確認した。要するに机の脚と天板の厚みで扉の姿が巧みに隠されているのだ。 フレッチャー刑事はそのまま机の上に飛び上がって右手を伸ばして壁を押した。パレー刑事もルドリーもその行動に驚いたが、もっと驚いたのはフレッチャー刑事だった。壁にレンガ一個分くらいの穴があくと同時に壁の裏で何かがこすれるような音がしたのだ。 パレー刑事はその音が机横の壁の裏あたりだと直感し、もう一度壁を押した。壁に似せた扉は後ろに移動してから下に落ちた。「うわっー」パレー刑事が大声をあげたのは、隠し扉が開いて暗闇に何本かのロープが見えたこともあるが、扉を開けるのを待っていたかのように流れ込んできた腐敗臭のせいだった。

パレー刑事はすぐさま部屋の施錠と立ち入り禁止をルドリーに言い渡し、階下の使用禁止をも厳命して殺人事件発生の報告をいれた。 外国人組織犯罪やテロリスト捜査などの担当者も加わって検証が行われた結果、やはり館の構造に詳しい者以外にこの犯行は無理だという結論に至った。たとえ隠し扉を発見して押し開けたとしても、この館独特の縦型閂(かんぬき)の構造を熟知していない者には隠し扉を元に戻すことができないと考えられたからである。隠し扉の後ろを、上下に長い幅広の板で塞ぐ構造になっていた。幅広の板に取り付けられたロープは上方の枕木状の腕を回してから壁に止められており、枕木を外すと同時にロープが緩んで板が滑り落ちるという訳だ。

ベルナールはポーカーの借金について訊かれた後、ついに言った。
「だれもかれもが僕の借金の話を知っているんだ。先週の土曜の夜に母が部屋のドアをノックしたんだ。開いていると答えたら、これを、と言ってテーブルに置いていったんだ。 僕はベッドの上で横になって考え事をしていたのでそのままにしておいたんだ。しばらくして妹のマルグリットが部屋ののドアをノックして母と同じように、これを、と言ってテーブルに置いていったんだ。 なんだろうと思ってテーブルの上を見たら1ルイ金貨が4枚入った小袋と1ルイ金貨1枚と5フラン銀貨が3枚入った小箱があったんだ」

部屋にはパレー刑事も含めて4人の警察官が詰めていた。フレッチャー刑事は鏡2枚とともにすでにイギリスに向けて発っていた。ベルキュ氏がどのようにして3枚の鏡を入手したのかは不明のままであったが、部屋に残されていた2枚についてはほぼ間違いなくイギリスで盗まれたものだろうという結論に達したからである。

「父が亡くなってから母は日に日に優しくなった、妹も。僕がその時なにを思ったか分かるか」
ベルナールは声を荒げて続けた。
「僕は激高したんだ。何もかもを壊したいくらいの衝動が沸き起こってきたんだ。僕の借金はすでに1000フランに近い額になっていたんだ、それなのに恩着せがましく115フランぽっちを恵んでくれたという訳だ。 僕はヴォドロイユ男爵の友人としてポーカーをしているんだ。ヴォドロイユ男爵はレセップス伯の失敗したパナマ運河の完成をアメリカ合衆国に託そうとしているんだ。これ以上ないほどの目的のために生きている方なんだ。 その大きさに比べて1ルイ金貨5枚のみじめさときたら、もう、、誰でもいいから壁に向かって叩き付けたいと、その夜はほとんど眠れなかったくらいだ。その時ベルキュ氏が何の意味もない大金を持っていることを思い出したんだ。北端の部屋に宿泊していた。 あぁ、本当にそうだ。本当に僕だけだったのだ。誰にも見つからずに狭い階段を登って、音のしないようにロープを操作して2階の部屋に入れるのは。あぁ、あれほど完璧に元に戻したことが仇になるとは。ドアの内鍵も開けて、自分の意思で消えたと思わせたのに」