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コロッセオ  マカオの石畳は硬く靴底に響いて、ここが日本ではないことをマルチノに思い知らせた。ここは九州肥前から遠く離れた異国の地であった。マルチノはイエズス会の司祭としてこの地にいた。キリシタン追放令により日本から追放されてはや10年、長崎へ向うポルトガル船は年ごとに少なくなりつつあった。
 日本で最初の遣欧使節の一員に選ばれた日からは、すでに40年もの歳月が流れていた。
世の中は、ともするとマルチノを置き去りにしながら急速に変貌しつつあった。マンショは10年も前に亡くなり、ミゲルはキリスト教を捨て、ジュリアンは人知れぬ身となりながらも九州で布教を続けているはずだった。

 ローマ法王に使者を派遣することは、イエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノ巡察使が発案したものだった。
ローマ教会は危機の時代を迎えていたのだ。プロテスタント勢力は無視できない状況にあったし、自然科学の発達は宗教上の真理と対立しつつあった。また、西欧各国の国家意識はローマ教会の優越性を脅かしていた。ローマ教会をささえるイエズス会は、その商業活動や政治的な精神が非難されていた。
 未知の国日本での布教の成果を西欧各地で披露することができれば、イエズス会への非難は期待と賞賛に変わるはずであった。また、少年らはゆるぎない信仰心を心に刻んで帰国し布教活動を行うはずであった。
 発案者のイエズス会にも、使者の派遣を了承した大名にもそれぞれの思惑があったが、マンショら少年4名は、その心のうちに新しい時代の精神を持ち帰る遣欧使としての誇りを感じていた。それは荒波を恐れず、隋や唐の都へ渡った先人達の使命感と少しも変わるところがなかった。

 イエズス会はその外面の装いとしての信仰とは別に、その内面には政治的な精神を秘していた。それは、「伝道の成果を挙げるのに信仰だけでは不足だ」と言った初代総会長ロヨラの精神だった。その精神のもと、彼らは新大陸やアジアへと布教活動に乗り出して行ったのだ。
 イエズス会は宣教師達に文書による報告を義務付けていた。日本を含むインド管区は、ローマ本部からの指示のもとに行動していた。正確な情報をもとにした戦略は各地で成功を収めていた。つまり交易によって多大な利益を得ていたのだ。イエズス会は正確な情報を得るために現地に溶け込むことを重視していた。海外布教に年若い少年が加わっているのは、彼らが現地の言葉や習俗になじみ易いからだった。
そのイエズス会の戦略の一環としてマルチノら4名はローマへと旅立ったのだ。マルチノはそのとき12歳だった。

 しかし、安土城下にイエズス会の教会や学校を建設することを許可した織田信長は、少年達がローマへと出帆して数ヶ月後に暗殺されてしまった。
その後の混乱を制したのは羽柴秀吉だった。秀吉は大徳寺で信長の葬儀を主催し、信長の後継者であることを広く知らしめた。秀吉はキリスト教に寛大な態度をとるつもりはなかった。信長の死より4年の後、秀吉はついに天下の第一人者となり、天皇より豊臣の姓を与えられた。翌年、秀吉はキリシタン追放令を発布した。遣欧使の少年達は宗教ゆえに帰る国を失ってしまったのだ。ヴァリニャーノ巡察使らの努力で帰国が許されたとき、少年達は20歳を過ぎた青年になっていた。
 帰国後、彼らは九州天草で司祭になるための勉学を続け、ついにマカオで司祭に叙階された。日本での布教の道は閉ざされつつあったが、神の栄光のため、神への奉仕と人類救済のために生きることに迷いはなかったのだ。

 幕府にとってキリスト教は、魂の問題ではなくすでに政治問題であった。貿易の拡大は様々な問題を引き起こしていた。幕府は日本人の奴隷売買の禁止を幾度も発令しなければならなかった。
 幕府のみるところ、宣教師達の最終的な目的は布教と教会領の拡大だったが、彼らを送り出した本国の領土的野心は、隠しようもない事実であるようにおもわれた。彼らは内乱を巧みに利用し、領土割譲を担保に武器の供給や軍資金の援助を行っていた。その狡猾さを幕府は嫌った。
明国のマカオが海賊掃討と引き換えにポルトガル人に渡され、ルソンをスペイン人が武力で占領し要塞化していることも幕府を警戒させていた。

 秀吉の天下は秀吉の死とともにあっけなく終わった。秀吉は有力者達を呼び、一子秀頼に忠誠を誓うようにと何度も念を押し、病床の枕元に誓書を集めていたが、6歳の遺児に戦国武将が抑えられるはずもなかった。それは、秀吉が主君信長の3歳の孫から易々と権力を取り上げた日と少しも違うところがなかった。
 徳川家康が次勝者であった。家康は2年で征夷大将軍を辞し、長男秀忠が江戸幕府の基礎固めに着手した。秀忠10年のときキリシタン追放令が発布され、マルチノら148名はマニラ、マカオに永久に追放された。

 その日から10年、幕府のキリシタン追放の決意は固く、ついにイギリス人の平戸商館も閉鎖された。時が至れば、また日本での布教活動が許されるだろうというマルチノの望みは日々失われつつあった。

 マルチノはこの頃、よく少年時代の夢を見るのだった。
ローマに滞在している時、似顔絵を描きたいという申し入れがあった。軽いスケッチをする間ポーズを取ってほしいとのことだった。芸術作品の教育的効果を理解していた教皇は、多くの芸術家の庇護者となっていたので、ローマには画家や画家を目指す者達が集まっていた。メスキータ神父は、少年達が西洋の絵画に親しむことによって、より一層ローマ教会の偉大さを理解するだろうと思い承諾した。もちろん、画家がグレゴリウス13世に近しい間柄であることは十分承知していた。
 数日後、マルチノら4名はメスキータ神父とともに画家の工房を訪れた。工房ではマルチノらと同年くらいの少年が何人も働いていた。画家は工房の一画を白い布で仕切って部屋のようにしている場所へメスキータ神父らを案内した。異国の服を身に着けた少年らは、工房中の好奇の視線を浴びながらメスキータ神父の後ろをついていった。
 彼らは一人ずつ椅子に座ってポーズを取った。画家は驚くほど素早く、彼らの顔を小さめの紙に色チョークで写していった。少年らは、メスキータ神父の顔はそっくりに描けているが自分達の顔は少し違うと小さな声で言い合った。それでも陰影をつけた画法には興味深々だった。工房の何人かの画家達も、自分の作業を中断してそっと少年らの白い飾り襟とキモノ姿を自分の画帳に描いた。異国の人物や風景を自分の画帳に収めるのは画家の習性だった。

 またある時には、イエズス会員のマルコ・ブルーノ神父から、サン・ピエトロ広場あたりを案内をしたいとの申し入れがあった。メスキータ神父も、世界最大の大聖堂の建築作業を間近で見学したいものだと思っていたので即座に話がまとまった。
 翌日、少年達はマルコ・ブルーノ神父の案内でサン・ピエトロ広場へ行った。見上げると大聖堂のドームを乗せるための建物が上に伸びつつあった。ドームは、真下に落ちようとする石の重みを球形の内側の中心に集めることで、柱のささえがなくても崩れないのだそうだ。広場はオベリスクを中心に、どちらの方角からも神の御心につつまれるように設計されていた。マルコ・ブルーノ神父の説明によると、このまま順調に工事が進めば来年にはオベリスクが広場の中央に立つだろうとのことだった。
 広場のまわりには、まだ古い建物などが残っており、人が住んだり、商店として結構繁盛したりしていた。マルコ・ブルーノ神父は、そのうちの一軒に少年達を案内した。街路から5段ほど石段を登るとそこは骨董店だった。天井が高い部屋のあちらこちらに大理石の石像や石像の残骸が置かれ、その足元には額に入った絵画や、用途の分からない金属製品などが置かれていた。店主は丁度フランス人にレリーフの説明をしているところだった。ブルーノ神父にようこそという顔をみせて、またフランス人に向かってそのレリーフの由来を説明し始めた。ブドウの葉で作った冠を被り、片手にはブドウの杖を持ち、もう一方の手にはブドウの房を乗せているバッカス神の浮き彫りで、肩まで垂れている巻き毛も顔も優美だった。フランス人はそのレリーフを馬車に乗せて、アルプスの向こう側へ帰るつもりのようだった。

 壁には、絵画やレリーフや壁に飾る小さな像などが隙間なく展示されていた。一方の壁際の黒色の長いテーブルには、本や地球儀などが置かれていた。
 マルチノ達が、矢に射抜かれた聖セバスチャンの絵を見上げて驚いたり、マドンナの絵に見とれたりしていると、この店の共同経営者らしい男が壁の後ろから出て来て、ブルーノ神父に良い掘り出し物があるからぜひ見てほしいと言った。
 7年ほど前、サラーリア街道沿いのブドウ畑が陥没して、迷宮のような地下墓地が現れてから、誰も彼もがそこらあたりを掘り返すようになったのだ。そして時々実際に古い時代の彫刻や貴金属製品が発見されるのだった。
自らを、過去の偉大な皇帝や聖者に結び付けたい貴族や枢機卿たちは、争うようにそれらを買い求めていた。

 マルコ・ブルーノ神父も古い装飾品を身につけたいと思っていた。それはイエズス会の清貧の誓いに反するものではなかった。聖者の遺品を身につけることは固い信仰心を現すものだった。
 そのあたりの機微を知り尽くしている店の男は、テーブルの上にベルベットのクッションを敷いて指輪をいくつか置いて見せた。「この古い指輪の紋章をご覧ください。装飾体の文字がイエズス会の紋章に似ているのです。アルデアティーナ街道沿いの畑から掘り出されたものですが、最初にブルーノ神父様にお見せしようと思って取っておいたのです。とても古いデザインです。手にとってご覧になってください」
 メスキータ神父も横からその金の指輪を見て、その小さなコインの表面の模様がIHSと読めることを確認した。偶然の一致とはいえ、金色の紋章の輝きは魔法のようにマルコ・ブルーノ神父の心をかき乱した。
 熱心に品定めをしているブルーノ神父の横で、マルチノらも珍しい骨董品を夢中になって眺めていた。
 銀の燭台の隣には祈祷書と1枚の絵が広げて置かれていた。1枚の紙に描かれているのは聖ヒエロニムスの偉大な生涯だった。聖ヒエロニムスがローマを後にし、船で海を渡り、パレスチナでヘブライ語の原典を研究している姿だった。聖ヒエロニムスはローマの城壁の中にも、船の中にも、パレスチナの修道院の中にも描かれていた。
 それは日本の絵巻物と同じ構図だった。信貴山縁起絵巻の尼公は、大仏の前で祈る姿、横になる姿、お告げを聞いて歩き始める姿が一場面に描かれていた。また、延喜加持の巻では、きらきら光る服を着た男が、くるくる回る乗り物に乗って空から走って来た場面が、その話を聞いた絵師の頭に浮かんだイメージの通りに描かれていた。九州とはいえ、綴本や絵巻物はそれなりのものが揃っていたので、少年らは物語絵の構図を比較することができたのだ。もっとも、日本の絵巻物は右から左へ場面が進むのだが、西洋の物語は左から右へ、あるいは螺旋状に進み余白というものがなかった。
 聖書をラテン語に訳した聖ヒエロニムスの偉大な行いについては、有馬のセミナリヨで学んでいた。その物語を絵で確認できるのはうれしかった。少年らの遣欧の目的の中には、ラテン語の聖書を日本語に訳して印刷製本する技術を学ぶことも含まれていたのだ。

 レリーフの交渉がまとまったらしく、店主が従業員を呼んで梱包を始めた。フランス人は丁寧に扱うようにと従業員に繰り返していた。荷造りが終わるとフランス人は荷物を持った従業員を従えて出て行った。もちろん、少年らを穴の開くほど見るのを忘れなかった。

 マルチノはテーブルに置かれているランプが気になってしかたがなかった。ランプは古いものだった。
九州肥前には土蜘蛛をめぐる伝説があった。
 その昔、山に分け入って道に迷った与八という男がある洞窟の中で夜を明かし、朝起きて足元を見ると半分土に埋もれた皿や壷があった。驚いて洞窟内を見回すと、自分が踏みつけた跡のある皿まであるではないか。ところが皿は割れていないのだ。不思議に思った与八はその皿を手に取って岩壁に向かって投げてみた。皿は岩に跳ね返って落ちただけで、割れもしなければ曲がりもしなかった。金属(かね)造りでもないのに壊れないとは、いよいよ不思議なことよと思った与八は、これこそ土蜘蛛の残した "土造りの金属(かね)" に違いないと思い、皿や壺を懐に入れて持ち帰ったということである。
その後、何人もの男がその洞窟を探して山深く入っていったが誰も見つけることができなかったそうだ。

 マルチノは、できることならランプを堅い石の床に落としてためしてみたかったが、もちろん触れることもできなかった。マルチノはラテン語で店主に訊ねた。「あれは何ですか?」店主はつつましく驚きを隠して答えた。「あれは、シリアのランプというものだ。古い墓から出てきたんだ。ローマ皇帝の持ち物だったのかも知れない」「素材は何ですか?」マルチノは訊ねた。「残念ながら金ではないよ、古いもので錆びていないからといって金とはかぎらないんだ」そういうと店主はランプを手に取って、右手の人差し指で胴の丸い部分をはじいてみた。金属でも陶器でもない乾いた音がした。店主は、ランプの色から古い銀をはじいた音がすると思っていたらしく少し怪訝な顔をしたが、「いつだって、シリアは謎なんだ。ここを見てみろ、シリアの古い文字が刻まれている。きっと "私を探るな" とでも書いてあるんだろう」と言った。「分かりました。ありがとうございます」とマルチノは言った。
 その店でマルチノは古い祈祷書を買った。祈祷書の頁を開くと左の頁に精巧な絵があり、右の頁にはその絵に合わせた文章があった。その祈祷書はさる貴族のために作られたものだったが、動乱の時代を過ごすうちに、表紙はくずれ中の頁も何枚かなくなっていた。それでも「聖母子」や「エジプト逃避からの帰路」などの美しい絵は、マルチノの心を捉えて放さなかった。
ランプも買いたかったが諦めることにした。古い祈祷書は結構な値段だったのだ。

 次の滞在先のヴェネツィアでは、鏡工房を訪問し、平らに伸ばしたガラスの裏に水銀を吹き付ける工程を熱心に見学した。ヴェネツィアはこの透明な鏡の輸出で巨利を得ていたのだ。少年達はこの最新技術の見学を許され、小さな鏡をプレゼントされた。

 彼らはヨーロッパで入手した印刷機や書物、日本国々王宛の贈り物などを船に積み込んで帰路についた。気の遠くなるような長い航海の果てにやっとマカオに着いたが、幕府は日本入国を許可しようとしなかった。入国交渉がまとまるまで一行はマカオにとどまることになった。

 マカオは東洋貿易の拠点として繁栄していた。ポルトガル人は、半島の先に位置するこの居留地を母国の都市と同じように飽きずに整備し続けた。
マカオの中心地では、セント・ポール天主堂がその姿を現し初めていた。このアジアで最も大きな天主堂の建設はイエズス会が行っているのだ。イエズス会の、死をも恐れぬ布教活動の成功物語が西欧各地から多くの寄進を集めていた。

 マカオに滞在中のマルチノ達は別々に行動することが多かったが、その日はなぜか4人一緒に公園のベンチに腰掛けていた。緑の濃い巨木がベンチの周りに木陰を落としていた。誰言うともなく日本の話になった。秀吉の九州征伐の騒乱中に、彼らを送り出した大村純忠も大友宗麟も亡くなっていたのだ。日本のいくつかの教会は焼き払われたという噂だが、信者達はどのような目に遭っているのだろうと、話は暗くなりがちだった。
 そこへ、ポルトガル人らしい若い女が3人やって来て彼らの前に立った。「中国(シナ)人なのに服がおかしいわ」「教会にいるでしょう」などと唐突に話しかけてきた。どうも彼らを子供扱いしているようだ。4人はとにかくベンチから立ち上がって「どうぞ」と言って手で示した。彼女らは笑いながらも当然のようにベンチに腰かけた。「どうしてポルトガル語を喋るの?」「何の話をしていたの?」「何かなくしたの?」などと3人が同時に尋ねるのだった。
 「私たちは日本人で、ローマ法王を訪問したんだ。シクストゥス5世の戴冠式に出席して、日本へ帰るところなんだ」とマンショが言った。「本当とは思えないわ」「そんなことウソよ」と彼女たちは一斉に言った。彼女たちのからかっているような大きな目はとても可愛いかった。「私たちはウソなんか言わないよ。将来は司祭になるつもりなんだから」とマルチノも言った。「ほんとうなの」などとまた疑り深そうな目でマルチノらを見上げた。「だけど、もう帰らなきゃ」「そうね」「たくさん話しちゃいけないわ」と言いながら立ち上がると、彼女らは来たときと同じように木陰から歩み去った。
マンショらは、「変なやつら」とでも言って笑いたかったが、ベンチの傍に立ったまま彼女らが歩き去るのを見送った。
それきり彼女らに二度と逢うことはなかった。

 ローマで買った祈祷書は今でもマルチノの手元にあって、マルチノの魂に安らぎを与えていた。この頃、マルチノがその祈祷書と一緒に遠い日の出来事を思い出すのには少し理由があった。
その理由とは、もうすぐ窓の下を通り過ぎるはずだった。ポルトガル商人の娘アンナ・タマラだった。彼女の家族はもうすぐマカオを離れてインドのゴアへ引越すのだ。その準備や情報交換のために、この近くのポルトガル商人の家によく訪れるようになったのだ。マルチノもこの部屋の主人から、日本との貿易の件や渡航の可能性についての情報を得るためによく訪れていたのだった。
 この通路の両側は、ポルトガル商人達が最新の情報を交換する場所だった。明国でさえ体制がゆらぎはじめていた。東北の辺境部族を統合した武将ヌルハチが、独自の国号「大金」を称して独立政権を樹立したのだ。明が武力でこれを阻止できなかったのは、宮廷内の党派争いが原因だった。万暦帝はアヘン吸引を好み群臣の前に姿を表すことがほとんどなかった。万暦帝の後を継いだ泰昌帝は在位わずか一ヶ月で病死してしまい、16歳の長男が即位し天啓帝を名乗ったが、党派の争いは激化するばかりだった。
 新皇帝の側近が、東林党関係者の粛清を始めたという噂が広まっていた。アンナの父親のタマラ氏は日本との貿易の展望がないことや、明政府の党派争いに巻き込まれたくないという気持ちからマカオを離れる決心をしたようだ。何人かのポルトガル商人が一緒にマカオを離れるようだった。
 マカオに住む者は噂話に敏感だった。ルソンではスペイン人支配に対する反発が強まっていた。島民は「スペイン人がネズミと腹の病気を持って来た」と恐れていた。また、アジアの地に後から参入したオランダの東インド会社は、かなりの成功を収めていた。西欧諸国にとって日本は、ルソンの北に位置する島国であり、キリスト教徒の上陸を厳しく取り締まっている頑迷な国であった。

 マルチノは、外出用のショールでかるく髪を覆ったアンナが向かいの建物から出てきた日のことが忘れられなかった。それは、マルチノが決別したもう一人の自分が生きているはずの別の世界を垣間見たような衝撃だった。マルチノはアンナの姿を追ってこの部屋にいた。もう二度と廻り来ることのないあの日と重なるアンナと同じ世界にいたくて、ポルトガル商人を訪ねていたのだ。
 ゴアへ移住するポルトガル人達の大量の荷物は、すでに停泊中の船に積み込まれているようだった。アンナが彼女の姉妹と一緒に建物の中に入ったり、友人達と一緒に建物から出てきたりするのをながめるのも今日が最後になるだろう。マルチノは信仰に生きる道を選んだことを後悔しているのではなかった。信仰ゆえに故国を失ったこと、信仰ゆえに迫害される身となった長崎の人々を思うとき、万感の思いを癒すのもまた信仰だった。
それでもマルチノは、イバラの道を敢えて選んだ少年の日の自分と、アンナを共に抱きしめたかった。