TOPへ戻る ランプの華麗な過去  
パルテノン神殿 ランプを床に落としてしまったことを反省し、極細繊維ハタキからふわふわタイプハタキへと交換した。だからどうしたという訳でもないが。
ランプの霊力がアップしたという兆候もない。

しかしこの古ぼけたランプには、遥かな昔、地中海の国々や砂漠のオアシスでその霊力を見せつけた華麗な日々があったのだ。
このあたりでその華麗な日々のひとつを披露してもよいはずだ。このランプは「運命」の姿を照らし出すのだから。

世界の商人が集まるフェニキアの港、シドンの風景から話を始めよう。
フェニキア人達は商売上手で、エジプトの象牙や黒檀、ギリシャの陶器などを各地の港から積み出して売りさばいていた。港には世界中の男達がやって来てそして出て行った。どこから来たのかは服装や特に帽子を見れば一目瞭然だった。
船は人と荷物を異国の港まで運んではくれるものの、目的地へ着いて大地に足をつけるまでは少しの油断もできなかった。波も風も神々の気分しだいだったし、島影には海賊が待ち構えていた。また、船長が心変わりでもしようものなら、どこの港に着くものやら、船から降ろしてくれるものやら分からなかった。

この港でランプはアジアの毛織物と一緒にフェニキア商人の船に乗せられた。商人はアジアの毛織物をギリシャの国々で売りさばいて、帰りはタソスあたりで香り高い葡萄酒を仕入れる予定だった。
こうしてランプは海を渡ってはるばるスパルタへと送られて行ったのだ。スパルタは王と戦士の支配する国だった。ランプは買われて王の居間に置かれ72回の冬と夏を過ごした。その間、王は居間よりも戦場にいることのほうが多かった。
ペルシャとの2度にわたる大戦はスパルタ王の勇猛ぶりを諸国に知らしめた。このときペルシャから奪った財宝を溶かして黄金の鼎(かなえ)を造り、デルファイの神殿に奉納したが、それ以上のものが戦利品として戦功のあった者達に分配された。
ギリシャ軍総帥スパルタ王パウサニアスのもとには、ペルシャ大王の持ち物であった黄金のゴブレットが後日届けられた。狩りの浮き彫り細工の見事な逸品であった。

アテナイとの長い戦いが始まったのはアルキダモス王のときだった。
ペルシャとの戦いに勝利したアテナイは強引な拡大政策を推し進め、スパルタと激突した。アテナイは反抗することも中立でいることも許さなかった。
「正義か否かは勢力伯仲のときのみ問題になるもの、強者と弱者の場合は強者が大をなすは当然のこと。これはだれもが知っていることだ」
これはアテナイがメロス島民に最後を告げたときの言葉だ。アテナイは言葉通りのことを実行した。
自らを存続させるためには、戦って勝つ以外に途はなかった。

戦争が始まって17年目、アルキダモス王はすでに亡く、スパルタはアギス王の時代となっていた。
夏が終わるころアテナイからの亡命者がスパルタにやってきた。
アテナイのシチリア遠征軍の指揮官の一人アルキビアデスが、国元に呼び戻される途中で逃亡して来たのだ。罪状は神を冒とくしたというものだった。
アルキビアデスの政敵は、アテナイの国運を賭けた遠征中にもかかわらず欠席裁判で有罪の判決を言い渡したのだ。
アルキビアデスはその美貌と舌足らずなしゃべり方で人の気を引かずにはおかない男だった。アテナイでは浪費に明け暮れていた男だが、スパルタの地に着くやいなやスパルタ風に体を鍛え、食事も質素で生まれながらのスパルタ人のように過ごし始めた。
また、演説が非常に巧みだったため、あっというまにスパルタをシチリア戦線に引き込んでしまった。これによりアテナイはさらに過酷な戦いを強いられることになった。

アルキビアデスがスパスタに滞在して2回目の夏の終りのことだった。アルキビアデスは戦況についてアギス王と暗くなるまで話し込んでいた。アルキビアデスの策は大胆でスパルタにいくつかの勝利をもたらしていた。話も終わり館へ帰ろうとしたとき、ふとランプが目に止まった。足元を照らすのに借りても良いだろうかと問うと、王は言った。「いいとも、今からそれは君のものだ」ランプにはいつの間にか灯がともっていた。

その夜は満月だった。中庭の西側の柱廊のあたりは月の光で明るく照らされていた。明るさのせいで柱廊の柱の陰に白いキトンのすそが翻るのが見えた。王妃ティマイアだった。どうしたことか侍女も連れずひとりのようだった。
ところがこのとき、風のいたずらか、ランプが急に明るく燃え上がってアルキビアデスの美しい顔にアポロンの輝きを加えてしまった。アルキビアデスの姿は竪琴の音が流れ出るように美しく青い闇のなかに浮かび上がった。
王妃はアルキビアデスの顔から目を離すことができなかった。アルキビアデスは柱廊を回って王妃のそばに行った。「これはうるわしい王妃さま、アギス王を遅くまでお引き留めしたことをおわびもうしあげます」
「王の客人のアルキビアデス殿ですね。侍女どもが噂いたしておりました。近頃のスパルタの勝利はアルキビアデス殿のおかげではないかと」
「うつくしい王妃さまからそのようなお言葉をいただけるとは、今宵のアルテミスのはからいに感謝をいたさねばなりますまい」と言ってアルキビアデスは夜空に輝く満月のほうに片腕をあげた。王妃も銀色の月を見上げた。しかし月の端に薄く影が出ているのを見て、驚いてアルキビアデスのほうに身を寄せた。月食だった。アルキビアデスは王妃の腕を取って月の光を避けるように柱廊を抜けた。
王妃はこの夜アルキビアデスに恋をしてしまった。

同じ月は、アルキビアデスが残してきたシチリア遠征軍の頭上にも輝いていた。アテナイ軍はシュラクサイ市の周りに遮断壁を構築し果敢に攻めていたのだが、ついに破れて大港の奥の湿地帯に追い込まれていた。勝ちに乗じたシュラクサイとスパルタの連合軍は、大港を封鎖するべく湾の出口に船を並べはじめていた。
指揮官のニキアスは、全軍を率いて大港を出て、シュラクサイの北方のカタネまで撤退することを決定した。その満月の夜は撤退決行の日だった。船を出そうとしたその時、月が欠け始めたのだ。皆不吉な月を見上げておののいた。
わずかな機会をとらえて現れる「運命」は、このとき月を隠す影となってアテナイ軍の前にたちはだかったのだ。ニキアスがあるいは本国からの援軍の将デモステネスが「運命」に立ち向かうよう説得すれば、「運命」はアテナイ軍に道を譲ったかもしれない。が、ニキアスは撤退を延期した。そして一ケ月後、袋の鼠となったアテナイ軍は、船を捨てシュラクサイの不案内な台地を逃げまどい、ついに全滅したのだった。

スパルタ王妃ティマイアの恋は翌年アルキビアデスの逃亡で終わった。王妃の懐妊は、アギス王にアルキビアデス暗殺を決意させる動機となった。スパルタ戦士は恐ろしく、アギス王はなお恐ろしかった。
アルキビアデスはペルシャ大王の地方総督ティサフェルネスの元へ身を寄せ、アテナイとスパルタを戦わせながら漁夫の利を得る方法をペルシャ語で進言した。アルキビアデスの美貌と言葉たくみさは狡猾なティサフェルネスをも魅了してしまったのだ。ペルシャの豪華な衣装はとりわけアルキビアデスに似合っていた。

ランプは王妃の私室の片隅に置かれ、日常のこまごましたものの一部となっていた。アテナイとの長い戦いにスパルタが勝利した後は、戦利品の黄金のランプに灯りがともされるようになったので、古いランプは忘れ去られてしまった。