TOPへ戻る 狩りの浮き彫り細工のゴブレット
空き巣にはいられてからしばらくの間、捕まりましたとか、鏡に映っていた男の面通しだとか、何か警察から連絡があるのかと期待していたが何の連絡もなかった。
あれほどはっきり映っていたのだから、これが空き巣の顔ですというポスターくらいはできそうなものだがどこにも貼り出されていないようだ。

問題の鏡は、あいかわらず雲っていた。駅前デパートの新装開店セールで買ったネクタイは、意識して選んだ訳ではないがこのあいだ突然鏡に映ったネクタイによく似ていた。

スークで買った狩りの浮き彫り細工のゴブレットは、柔らかい布で磨くとピカピカになってきた。古代エジプトやペルシャあたりには、金と銀の合金を用いたアクセサリーや食器類などがあった。琥珀金(こはくきん)と呼ばれるもので、純金よりはやや白っぽいが非常に美しい。
ゴブレットが琥珀金製である可能性はほとんどゼロに近いが、磨いているうちに、もしかしたら1/10000くらいの確率で琥珀金かも知れないという妄想が湧いてきた。
そう思ってみると、狩りの図柄も神々しい。弓をひく馬上の男も追われる野獣も頭を左にして大きく跳躍しているので、時計回りに追いかけるデザインになっていた。

ゴブレットを回しながら浮き彫りの技術を確認した。野獣は鹿の仲間らしく頭全体より大きな1本の角を持っていた。角の形が違う鹿が1頭、2頭…。あれ? 弓を構えた男がいない。

「わたしは大王様のテーブルを飾ったこともありました」

どこからともなく声が聞こえてきた。鏡で十分驚かされていたのにもかかわらずまた驚いてしまった。

「狩猟は最も贅沢な楽しみのひとつでした。大王様の苑は広大でたくさんの野獣が放されておりました。最初の獲物をしとめるのは大王様ときまっておりました。この掟を破ったものには死罪が申し渡されました。あとで恩赦の知らせが届くことはありましたが、二度と大王様の会食の席に連なることはできませんでした。
大王様、すなわち諸王の王、諸国の王クセルクセス様はもっとも高貴で美しい狩人でした。

大王様の歳の6年目のことでした。わたしは大王様と500万の兵士とともにアジアからヨーロッパに渡ったのです。それがわたしの長い旅の始まりでした。わたしは数々の宝物と一緒に宝物車のひとつに積み込まれ、ヘレスポントスを東から西に渡りました。めざすは半島の小国アテナイでした。アテナイを征服することすなわち全ギリシャを征服することだったからです。

デルファイの巫女がアテナイに下した神託は、憐れなる者よ地の涯に逃れよ、というものでした。しかしアテナイの使者はオリーブの枝を持っていま一度の神託を願ったのです。再度の神託は、木の砦をば唯一不落の塁として賜る、という深淵なものでした。アテナイの要人テミストクレスは、木の砦を船と解釈しました。そして、はがねのごとく硬く破れぬその言葉のとおり、サラミス湾の海戦でアテナイの船は残り大王様の多くの船は海の藻屑となったのでした。

わたしを運ぶ荷車は北へ急ぐ途中のテッサリアでギリシャ軍に捕えられ、わたしはスパルタの宮廷へと曳かれていきました」

ふっと目が覚めた。右手に狩りの浮き彫り細工のゴブレットを持ったまま居眠りをしてしまったらしい。細かい細工は難しい数式のように眠りをひきよせる効果があるようだ。ゴブレットを回してみると馬上の男は相変わらず弓を構えて前方の鹿を追っていた。何か聞こえたような気もしたが夢だったのかもしれない。